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Penguin Diary

PNdesign(ピーエヌデザイン)

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webデザインをお仕事にしている、元アパレルバイヤーの日常記録です。

60 : movie【世界に一つのプレイブック】

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一度更新の手がとまると、日々のあれやこれやに押し流されて

 

いつのまにかひと月も時間が経過していました。

 

 

続けられるというのはいかにすごい能力か。

 

歯を磨く習慣のように文章を書き続けるには

わたしのタイピング能力の改善と、

文章を吟味して書く行為をやめればおのずとできるのですが

それがなかなかに難しい。

 

 

いろいろな出来事が通りすぎていきましたが

今日は久しぶりなので、さくっと映画レビューを。

 

 

 

世界にひとつのプレイブック

世界にひとつのプレイブック』(せかいにひとつのプレイブック、Silver Linings Playbook)は、デヴィッド・O・ラッセル監督によるアメリカ合衆国のコメディ・ドラマ映画である[4]マシュー・クイック英語版の同名小説を原作とし、ラッセルが脚本を執筆した。出演はブラッドレイ・クーパージェニファー・ローレンスロバート・デ・ニーロジャッキー・ウィーヴァージュリア・スタイルズクリス・タッカーらである。

2012年9月8日に第37回トロント国際映画祭でプレミア上映され、アメリカ合衆国では2012年11月21日に一般公開された[5]第85回アカデミー賞では作品賞を含む8部門にノミネートされ、ローレンスが主演女優賞を受賞した[6]

 

 

上記Wikipediaより。

 

 

躁うつ病のパットは、8ヶ月で精神病院を退院した。高校教師だったパットは、妻であるニッキの浮気相手を殴って入院を命じられたのだ。失職し、離婚したために両親の家に同居するパット。毎日のように騒ぎを起こしても、パットは自分が正常だと信じ、復縁のため元妻に連絡を取ろうとし続けた。

友人ロニーの義妹ティファニーと知り合うパット。夫と死別したティファニーは、ショックで混乱し、セックス中毒セラピー治療を受ける身だった。ダンスが得意なティファニーは、自分を取り戻すためにダンスコンテストへの出場を決意し、初心者のパットをパートナーに選んだ。ティファニーは、本気でパットに好意を持ち始めていたのだ。

元妻との連絡の橋渡しを条件に、ダンスの特訓を始めるパット。そんな時、アメフトノミ屋をやっているパットの父親が、全財産を賭けて負けてしまった。それを知ったティファニーは、損失を取り戻すために、ダンスコンテストの自分たちの得点を対象にして、起死回生の賭けをセッティングした。

ダンスコンテストの日、会場に元妻ニッキを連れて来るロニー夫妻。それを知り、取り乱すティファニー。それでもティファニーとパットは息の合ったダンスで賭けの得点をクリアした。ティファニーの気持ちに気付いたパットは、すでに元妻への未練を断ち切っていたのだった。

 

 

 

精神を病んだ(と思われる人も含め)を直接的に目にし、

実際に接していた人や、またそれを想像するにたやすい人には

恐らく考えが方々に及んでしまう内容だっただろう。

 

 

精神病は心の病だ。

そのひとが悪いのではなく病が悪い。

 

そんなようなことをふるふる君はいったことがある。

 

 

まるで裁判官のようだ。

 

罪を憎んで人を憎まず。

病を憎んで人を憎まず、か。

 

とわたしはそのとき彼のその殊勝な考え方に驚いたものだ。

 

わたしにはまだ到底そのような境地にいたるほどの

悟りは開けない。

 

人は産まれてくる環境は選べないが、

自分自身で生き方を選択できるようになったあとは

アドバンテージの差こそあれ、どのように存るかは

自分自身で選ぶことができる。

 

心を病んでしまう多くの原因は、対人間関係によるストレスと

自分自身の心の落とし所にあると思う。

 

嫌な人間関係からは逃げるか、自分が変わるか、相手を変えるか

3パターン用意されている。

 

ともに過ごすと疲弊してしまうような人間とともにあれば

その疲弊はいずれ嫌悪に変わる。

精神衛生のバランスの悪化は自分自身を最高に不幸にする。

 

話がそれたが、大人で今現在はっきりと自分は幸せじゃないといえる人は、

だいたい自分自身の責任と意思をもって不幸の中にいる。

ちなみにわたしは不幸を選ぶなら死ぬまで不幸であれ、と思っている。

 

それを忘れて不幸の湖に陶酔的に漬かっている人、

それが病んでいる人だとわたしは思っている。

そういう人に限って救いの手を漬け込みやすそうな人間に伸ばす。

いま手をとってくれないと死ぬといわんばかりに。

(そして実際に死なない)

 

現代人には心の歪みをもった人が多い。

 

心の病というラベリングが世に広く知れわたることで救われたものもいれば

自ら喜んで湖に沈みゆき、自身に降り注いだ不幸に

打ち震えるものを増やしたことも事実だ。

 

わたしは医学的知見に真向から反対したい。

ホルモン(病)のせいではなく、その人自身が不幸になりたがっているのだ。

そこに手を差し伸べる必要はない。

変わりたいと思っていて、変わるための努力をする人を除いては。

 

 

前置きが長くなりましたが、

この映画はあらすじ書きにもあるように、

妻の浮気で心が壊れて躁鬱病になった男と

愛する人に先立たれてSEX依存症になった女が

急に出会い、ぶつかりあいながらも前に進んでお互いの心の病を乗り越える

という話が主軸です。

 

 

この過程が映画の中でおりなされているとき、

わたしはラカンの一説を思い返しました。

 

 

赤ん坊は、胎児として子宮に存在している状態では、

「おかあさん」という言葉を持つ必要がない。

だから、言語活動は発生しないし、生まれてからも

赤ん坊の口には母の乳房をくわえているわけだから

言葉通り言語を持つ必要がない。

 

産まれてからすぐはとかく乳房からこぼれるミルクさえあれば

赤ん坊は言葉を発して何かを求める必要もないし、しゃべりようもない。

これは、乳児にとっては全世界が自分のものであるかのように

最高に快楽な状態なのだ。

 

言葉なくしてほしいものが伝わり、またそれを与えられるだけの世界。

 

そんな甘美な時間はすぐに過ぎ去り、断乳が始まる。

すると満たされない隙間、すなわち「欠如」が生まれる。

欠如が生まれて初めて、乳児は母やミルクを求め探すために

あやふやな言葉をあげ始める。

 

この過程は赤ん坊が「人」として為るためには欠かせない課程だ。

 

言語は、人間が自分の頭に思い描いているもの、

つまり形作られていないものを他人と共有しようとしたり、

他人に伝達するために用いる象徴的なものであるから、

言語はどこまで精緻に紡ぎだしたところであくまで象徴の域を出ない。

 

社会はさまざまな人間がさまざまな見解をもって生きているがゆえに、

無数の掟・契約・約束事などでがんじがらめになっている。

 

こうした掟は、言語で書かれている。

たとえば、不文律の概念などは人間が言語を持たなければ存在しえない。


ゆえに、かくも狭義的な意味合いであるが、

象徴は掟であり、父である。すなわち掟も言語も

ただの象徴であるといった図式だ。

 

しかし、人々は先にのべたようにさまざまな見解をもって生きている。

そのため象徴的な言語は、かき集めて寄せ集めても象徴でしかない。

 

「言語は現実を語れない」のだ。

 

しかし、悲しいかな、同時に人は

「言語でしか現実を語れない」

 

これら二つの命題は矛盾することなく現実世界を支配している。

 

 

われらは全容を解明すべく、日々ニュースや

知見を深めるべく様々な角度から検証するが

全容の解明は、言語が象徴の域を脱することができない限り

ラカンの一説をなぞらえるのであれば)

なにをもってしてもできないのだ。

 

だから、「世界にひとつだけのプレイブック」は

ひとつしかないのだ。

 

誰にも同じことを同じように理解できない世界。

それがわたしたちの生きる世界なのだ。