Penguin Diary

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webデザインをお仕事にしている、元アパレルバイヤーの日常記録です。

02:映画【セッション】

 

飲んだ勢いと衝動で、「女たちは二度遊ぶ」が見たいと

ごねて立ち寄ったTSUTAYAで、

一緒に飲んでいた彼氏(といってもこの人はほとんど飲みはしないが)

が、『面白いらしいよ。』と言って持ってきた映画が

表題のセッションである。

 

 

下記、wikipediaより引用。

 

セッション』(原題: Whiplash

 

2014年アメリカ合衆国で製作されたドラマ映画である。監督・脚本はデミアン・チャゼル、主演はマイルズ・テラーが務めた。第87回アカデミー賞で5部門にノミネートされ、J・K・シモンズの助演男優賞を含む3部門で受賞した。

あらすじ[編集]

アンドリュー・ニーマンは19歳のジャズ・ドラマーである。若くして才能に恵まれるニーマンは、バディ・リッチのような「偉大な」ドラマーになることに憧れ、アメリカで最高の音楽学校、シェイファー音楽学校へと進学していた。壮大ながらも獏とした夢を抱えながら、日々孤独に練習に打ち込むニーマン。ティーン・エイジャーらしく恋愛にも憧れ、父と「男の争い」(Rifif)を観に行った映画館で働いている大学生のニコルに恋愛感情を抱きながらも声をかけられずにいた。そんなある日、シェイファー音楽学校の中でも最高の指揮者として名高いテレンス・フレッチャーが彼の学ぶ初等教室へやってくる。ニーマンの卓越した演奏はフレッチャーの目を引き、彼はシェイファーの最高峰であるフレッチャーのスタジオ・バンドに招かれる事になった。

 

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映画『セッション』公式サイト

 

 

DVDのパッケージを見せられて、

『なんてコワモテのおっさんなんだ・・。』

 

それしか感想はなかった。

 

 

基本的にどんな映画も面白かろうが泣けようが

眠いと感じたら寝てしまうわたしである。

 

面白い映画しか借りてはいけないルールなどない。

 

 

当初の目的だった、「女たちは二度遊ぶ」は

学生時代に一度見ており、とても面白かった記憶を頼りに借りた。

 

だが、記憶の中にとどめられていた面白さというのは

ただただ、友人たちとたわいもないことを話しながら見ていた

楽しさとすり替えられた、随分とノスタルジーに装飾された古びた思いでだったことに再生して気づいた。

 

 

アラサーあるあるではなかろうか。

 

 

ところで、表題の映画についてであるが

ファーストインプレッションというものは

なかなかにして裏切らないものである。

 

パッケージになっている

J.Kシモンズ扮する、坊主頭の音楽大学の教師のインパクトたるや否や。

 

昨今は、人材教育とは何たるか、

さらにはトレーナーのトレーニングの必要性が叫ばれ、

指導方法のロジックも積み上げられてきている。

 

昔のような肉体派教師は激減し、教師の在り方が問われている

こんなご時世に、時代錯誤さながら

戦争中の軍国教官、いやもしくはそれ以上の恐怖で

自身の生徒を徹底的に、肉体・精神双方をいたぶりつける。

 

放送禁止用語差別用語連発で生徒を罵倒し、

折檻を行い、理不尽な理由で責めあげる。

何度も何度も同じパートを繰り返させ、

見ているこちらが狂気の沙汰へ落ちてしまいそうになるほど

画面の中の生徒も、教師も狂っていた。

 

 

社会人の世界にも、教育をはき違えた上司やトップは存在する。

 

 

部下を育てれば、自分よりも大きく優れた存在になった瞬間に

自分の立場や報酬を脅かす敵となるからだ。

 

この世は弱肉強食である。

  

また、教えるという行為を実践する場合

大抵は自らが受けてきた教育そのものが現れる。

教えることを知らない人間に教えられた人間が

また誰かを教えることは難しいに違いない。

 

そして、生まれながらにして

如何様な素晴らしい教育を受けてきたとしても、

一向に他人および心を理解できない人間も存在する。

 

 

わたしは、狂ったシモンズを見つめながら

そのバックグラウンドを考えたが、最後までその解説描写はでてこなかった。

 

あぁ、一向に他人および心を理解できない人間を示しているんだろう、

と結論付けさせられた。

 

 

Wikipediaには、物語の最初から最後まで

すべてのディティールが示してある。

 

鑑賞前の方は、読むとすべてストーリーがわかってしまうので

見たくない方はやめたほうがいい。

 

 

だが、この物語の一番の見せ場は

ストーリーのディティールではない。

 

 

 

素晴らしき演者を生み出すという野心に蝕まれた、教師の人としての心。

 

 

自我が未完成の若い生徒は、

考えることを捨て、

生活を捨て、

体の痛みに耐え、

ただひたすらに高みへ、

まだ見たことのない教師の描く音の頂点を目指す。

 

 

それは一般的な感覚ではなかなかにして共感できないところだ。

 

 

かの有名な登山家がいった、なぜ山に登るか、という理由は

そこにエベレストがあるから、だった。

 

 

 

高みを見る、という野望を抱くものは

多かれ少なかれ、その険しい登山の最中に心をいつの間にか蝕まれる。

 

心を蝕まれずして高みに登ることができるのは、

生まれながらにして自らの心や他人の心を感じない人間が

代償に得た能力であろう。

 

そういった人間は別として、

心を蝕まれながらもそれに打ち勝ち、てっぺんを望む方法とは一体何なのか。

 

主人公の一人である、心を蝕まれた若い生徒は、

自らを完膚なきまでに打ちのめした狂気の教師に

渾身の一撃のスティックを見せつける。

 

 

そのスティックを置いた後、彼にどんな未来が待っているかは描かれない。

 

 

スティックを置くのか、自らも狂気に満ちた教師となるのか、

はたまた有名楽団に入って名を馳せるのか。

 

 

 

心を蝕まれながらもそれに打ち勝ち、てっぺんを望む方法。

 

 

若い生徒は中の上程度と想像する家庭で、

優れた兄2人の下で育ち、特段褒められることはなく

最後のアイデンティティの拠り所が恐らくドラムであったであろうことは

容易に想像がつく。

 

「ドラムを失う。」

 

それは、代わりの何かをみつけるか

中庸な自分を受け入れるかのどちらかでしか、

一度蝕まれた自らの心の安定を図ることは不可能だろう。

 

 

若いうちの挫折は、人のその後の生き方を大きく左右する。

 

 

最近みた映画、「インターステラー」にこんな言葉があった。

 

 

『前に進むためには、後ろに何か置いていかなきゃならない。』

 

 

 

 

つまりは、そういうことなのだ。